大気は雨の気配を孕んでいた。
重く湿った空気が私を包み、なだらかな坂を登った程度で全身に汗が滲む。
今日に限った話ではない。今年の夏を振り返ると、灰色の空から降りしきる雨と不快な湿気が、いつも私にまとわりついていたような気がするのだ。
……鬱陶しい。
私は焦燥と共に夏を過ごした。やらねばならない事がありながら、多忙を理由に先送りにした問題が意識の底に澱んだまま、9月も半ばを過ぎてしまった。
ノブが仕掛けたトラップの解除――それは爆発物処理班の憂鬱と似ている。手をこまねいていれば事態が悪化するのは判っているが、嬉々として取り組む気にはなれないのだ。まして複数のトラップが錯綜し、個別に効果的な解除方法を模索している状況下では、なおさらだ。
鬱陶しい。
だが、いつか問題と対峙しなければならない時がくる。
喫茶店のドアを開け、ひんやりとした冷気に包まれた店内を一瞥すると、奥まった席に――ノブが座っていた。
近くまで来たものだから、とノブは言った。久しぶりに話でもしようと思ってね。
彼は微笑んでアイスコーヒーを飲んだ。私はにこやかに他愛のない世間話をしながら、煙草に火を点けた。
重苦しい空気が場を支配していた。
「そういえば……最近、カルドセプトやってる?」
何気なさを装ってノブが訊く。忙しかったからね、と応えた私の言葉に嘘はなかったが、柔和な彼の目に一瞬、冷徹な光が宿ったのを見逃しはしなかった。
――邪眼。
私はノブに心理スキャンされたのだと本能が囁く。ゲームは明解なロジックで構築され、的確な分析が必勝法に繋がるのだと主張する彼は、敵プレイヤーの心理までも“理”で推し量ろうとする。
嘘か、真実か。嘘だとしたら、どのような真実を隠蔽するために選択された言葉なのか。敵プレイヤーはその嘘でノブをどこに誘導しようとしているのか。嘘に乗せられたふりをしてゲームを展開した場合、どのような戦術が最適で、いつ反撃に転じるのか。
全てのプレイヤーが理性的に最適戦略だけを選択してゲームに臨むなら、ノブの分析と対応は高確率の勝利をもたらす。――だが、現実はそうではない。特に私の場合は。
私は分析結果に固執しない。最終判断は曖昧模糊とした潜在意識に委ね、しばしばセオリーから外れたプレイを展開する。私が信奉するのはカンだ。状況を鳥瞰している無意識が“理”の境界外から最適手を囁くとき、私は躊躇せずに理を捨てる。
そして、鬼畜対戦においては、この対応が多大なダメージを相手にもたらす事があるのだ。
「ノブはどう?あれから玉吉と対戦してるんだろ?」
私はアイスコーヒーにミルクを注いで、彼に訊いた。
「玉吉か」
彼は苦笑を浮かべ、私の手許を注視する。白い軌跡が踊りながら黒に浸透する。
「玉吉とは、対戦できない。あんなワザでコンピュータに勝っても、ダメだ。あんなワザが人間に通用すると思ってちゃ、ダメだ」
そうだろうな――私はストローでコーヒーを撹拌しつつ思う。それがおまえのトラップだ。玉吉弱体化がそのコンセプトなんだ。
「玉吉がダメって……どういう事だ?」
内心の独白を隠して言葉を重ねる。ミルクとコーヒーは飽和して綺麗なブラウンになった。もう白と黒に戻す事はできない。玉吉も同じだ。
「足止めトラップに、頼りすぎてる。玉吉は、そんなブックしか、編集していない」
蔑むようにノブが言った。
前回の対戦時、ノブは足止めトラップブックでゲームを進め、玉吉は見事にそのトラップに嵌まって屈辱的な敗北を喫した。屈辱は玉吉の激情を呼び、激情は冷静な判断力を奪う。この段階で、彼はノブの策略に墜ちた。ノブを厭うあまり、その意味を考慮することなく私のデータを渡して事務所から追い出したのだ。
……すでにもうひとつのトラップに冒されている事実も知らずに。
ノブの目的は、データ奪取よりも、むしろ第2のトラップにこそあったのだと私は信じている。何よりもロジカルな戦略――権謀術数を得意とする男だ。第1のトラップはデコイにすぎず、信憑性のあるデコイだからこそ真意を隠蔽できたのだ。
第2のトラップは玉吉の戦略を縛る呪縛だ。
“カルドセプトには必勝のブックが存在する”
この錯覚が玉吉から柔軟な思考を奪い、攻略し易いセプターへと変貌させる。
対人戦経験のないセプターは、ケルピーやオールドウィロウの足止め効果に目を奪われがちだ。
水属性で足止めトラップを仕掛ける場合、通行の要所となるポイントに同一属性の土地連鎖を形成し、中央の領地にケルピーを配置する。万全を期すならランドプロテクトをかけて、スペル攻撃からケルピーを保護すればいい。あとは土地レベルを最大値まで上げるだけで、敵セプターから金を絞り取り、かつ鉄壁の防御を誇るトラップが完成する。
――では、対人戦で敵セプターが同じ戦術を採った場合はどう攻略すべきか?
ある程度カルドセプトをやりこんだセプターは、単純な事実に思い至る。
このブックが唯一最強の存在だとしたら、スリリングな対人戦など期待できないではないか。それは戦略や戦術の介在する余地のない殴り合いでしかない。
この疑問は、試行錯誤を繰り返すことで解消される。カルドセプトは最も単純な解決策から奇策、消極策から積極策まで、あらゆる攻略バリエーションを可能とするべくバランス調整がなされているのだ。
しかし、玉吉は強烈な刷り込みによって思考停止状態に置かれた。
カルドセプトには必勝のブックがあり、それは対人戦でも機能する。なぜなら――ノブとの対戦に敗北することで、それは証明されたのだから。
これほど御し易い対戦相手はいない。
「そういえば玉吉は、スクロールの事を、よく判ってないみたいだな」
淡々と、ノブが言う。つまり、最も単純な足止めトラップ攻略法すら理解していないのだ。
同一属性の土地に配置されたクリーチャーは、戦闘時に土地のレベルに応じた地形効果を得ることができる。レベル5の土地にケルピーを配置した場合、ケルピーの体力(HP)30に土地レベル5×10のHPが加算されることになる。
HP80のクリーチャーを倒すのは容易ではない。
さらに、ケルピーが防御系最大値のアイテムであるプレートメイルを装着すば、HPは130にも跳ね上がる。
最強の武器であるクレイモアですら攻撃力(ST)50だ。水属性に配置でき、STが80もあるクリーチャーはセレニアしかいない。ただしセレニアは召喚条件が厳しく、ケルピーの領地に止まったときに手許にあるという保証もない。
この状況を打破する武器がスクロールだ。
スクロールは地形効果を無視し、敵クリーチャー本来の体力にのみ攻撃を集中する特性を有している。たいていのスクロールは30程度の攻撃力があるので、非力なクリーチャーでも簡単にケルピーを倒すことができる。
「だから玉吉は、スクロール対策すら、やっていない。読みやすいよ。凄く、読みやすい」
玉吉のブックは足止め効果を持つクリーチャーの属性――火か水を中心に編集され、ゲーム展開はトラップの活用へと収斂される筈だ。
典型的な拠点防御戦略だ。アイテムやスペルの構成も推測できる。グーしか出せない相手とジャンケンをするようなものだ。
「玉吉に教えてやらなかったのか?スクロールの意味や、足止めトラップの攻略法を」
ノブは微笑を浮かべた。私の台詞は、鬼畜対戦においてはギャグでしかない。
「あいつは、仕事の合間に、一所懸命カルドをやった。ある日、仕事中の僕に声をかけた。『足止めブックって無敵じゃないか』。だから僕は答えた。無敵だよ、って」
「対コンピュータ戦ではな」
「だけど、嘘は言っていない」
――嘘。
なぜかその言葉が気にかかる。ノブが仕掛けたトラップの解除方法に関係している気もするのだが、私が信奉する無意識は沈黙していた。
「スクロールの意味を教えることも、ない。知ろうとしない玉吉が、悪い。それに、せっかく佐藤が仕掛けたワナを崩すことも、ないよね?」
私が仕掛けたトラップ?……仕掛けた覚えはない。
「佐藤が、僕と同じ事を考えていたとは、思わなかった。おまえはレクチャーで、玉吉をミスリードした。あいつは、スクロールは特殊能力を持つクリーチャーに使うものだと、思い込んだ。攻撃を反射するデコイに効果的だと、錯覚した」
思わず洩れそうになる驚嘆の声を抑えた。
私は長時間のレクチャーに疲れ、詳細に説明する労を厭っただけなのだが、玉吉はスクロールに対する誤った概念を持ち、ノブはそれが私のトラップだと判断した。
――先王を暗殺して王位を簒奪した者は、いつか自分も暗殺されるのではないかと疑心暗鬼に囚われ、王位継承権を持つ人間に謀略の萌芽と殺意を見いだすものだ。
人はそれを妄執と呼ぶ。
だからこそノブは、私も彼と同様に幾つものトラップを仕掛けたのだと結論づけたのだ。
レクチャーの内容を知らないノブは、玉吉のプレイを見ながら、誤った戦術のことごとくに私の影を見い出し、やがて緻密な“理”のトラップを脳内に構築してしまったのだろう。――佐藤は実に周到にトラップを張った、と。
彼の思考は、やがて最大のトラップに思い至る。……私が残したデータだ。
(佐藤は、なぜこのデータを残したのか。データを奪取させ、私に誤情報を与えるのが目的ではないのか?それとも玉吉が言うように、強引な懇願に負けて置いていっただけなのか?)
私はノブが最も優位なポジションを占有していると考え、その優位性を剥奪するためにはトラップを解除し、彼の最大の弱点である奇妙な思い込みを見極めなければならないと思っていた。
思い込みとは、たとえば戦闘や戦術レベルでのそれを意味する。ところが、彼は戦略レベルで予想外の思い込みに囚われていたのだ。
――私の力量を過大評価している。
わざわざ私に会いに来たのも、私のトラップを解除するためだったのだ。自分が圧倒的に優位なら、そんな真似はしない筈だ。
その錯覚、利用させて貰う。
……ふいに、私の脳裡にイメージが浮かんだ。
緊密に張り巡らされたノブのトラップ。ワイヤーは張力の限界まで引き延ばされ、私と玉吉を包囲している。――が、良く見れば全てのトラップが1本の長いワイヤーで繋がっているのだ。
ワイヤーの包囲は彼自身にまで及ぶ。自分のトラップだと気づかずに、一歩も動けずに恐怖しているのだ。
ブービートラップという言葉のイメージから、各トラップごとにワイヤーが用意されているものと思っていたが、それは私の錯誤にすぎない。トラップとは、ノブの“理”に他ならないのだ。だとすれば、個別の解除ではなく1点を切断すればいい。内包されたエネルギーは解き放たれ、ワイヤーは末端を握るノブに向かって弾け跳び、したたかにその全身を打つ。
ノブの弱点は、緊密な“理”そのものだ。
“理を乱せ。嘘と真実を武器にして”。――無意識がそう囁いた。
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